「紫籐教授 今日の講義の内容について質問があるんですが」
ドアの外からノックをしながら 声がかけられた。
「一成……あっ……誰か来てる……んっ」
ソファに横になったままの友貴の首筋を一成の唇が辿る。
ノックを全く無視している一成に焦りを感じ 友貴は胸元まで降りかけていた頭を渾身の力で押しのけ立ち上がった。
「いてっ」
一成は頭を押えて立ち上がると苦笑した。
頬を膨らませたままでいる友貴の襟元をそっと直す。
教授室には各部屋事に小さな湯沸かし室がある。
一成は友貴にその小さな部屋を手で示し 自分はドアの鍵を開けた。
ドアを開けると 諦めて帰ろうとしていたのか後ろを向いていた人物が振り返った。
「教授……」
「横沢君。質問は講義の後ですぐ聞いてくれるとありがたいんだがね」
一成が冷たい声に 横沢と呼ばれた人物は凍りついてしまったのか俯いた。
「どうしても 今聞きたかったんです。でもご迷惑でしたね すいません」
帰ろうとする横沢にため息をついて 一成はその腕を掴んだ。
「別に帰れとは言ってないだろ。今日は聞いてやるから入れよ」
急に はいと明るい返事をして 横沢は部屋の中に入った。
「あの、ここなんですが」
一成が眉をひそめる。
湯沸かし室の戸を少し開けた隙間から 中を覗いていた友貴には 一成がどうしてあんな難しい顔をしなくてはならないのかがわからない。
「こんなところが わからないなんてはずがないだろ」
少し怒気の混じった声に 横沢が甘えたような声を出した。
「だって本当にわからないんだ。教授に教えてほしい……」
友貴の位置からは 横沢が今どんな顔をしているのかは見えないが その声は一成を誘っている以外の何物でも無いことを語っている。
ぎゅっと唇を噛む。
面白くない。
「そうか こんなところもわからない……か」
一成はにこやかに横沢を見つめる。
誘う目のままで横沢が頷くと 一成は急に眉間に皺を寄せた。
「なら、おまえに単位はやらない」
「ええっ?なっ……」
横沢は驚いて唇を噛みぎゅっと一成を睨んだ。
「教授……僕の気持ち…前にも伝えたよね。好きな人がいるなんて 嘘なんでしょ?単位をくれないだって?それが教授の僕に対する答えなんだね」
友貴は横沢をよく見ようと 戸をもう少しだけ開けた。
サラサラの髪に大きな黒目がちな目 小さめだがぷっくりとした唇のついた愛らしい口元。
女よりも細く折れそうな腰。
白くて細い手足。
どこから見ても満点の美人だった。
「好きな人がいるっていうのは嘘じゃない 何度言われてもお前の気持ちに応えることはできない」
一成ははっきりと言い放った。
「嘘……だ お願い教授。はじめて見たときから好きなんだ。どうしようもないほど。じゃあ、好きになってくれなくてもいいから 一度だけキスして」
一成は ふぅと大きくため息をついた。
「一度だけキス……か。それでちゃんと諦めてくれるんだな?」
そういうと一成は その手で横沢の顎を上げ そのぷっくりとした唇にそっと唇をおとした。
あっ……。
のぞき見ていた友貴の胸がずきんと痛んだ。
こんな可愛い人が 一成を手に入れようとしてあんなに必死になっている。
その事実は想いが通じた幸せに浸っていた友貴を 簡単に不安の谷底へと突き落とした。
バタンとドアが閉まる。
一応納得したような顔をして横沢は帰っていった。
重い沈黙を破るように一成は甘い声でその名を呼んだ。
「友……」
一成ははっきりと横沢の告白を断っていた。
一成の気持ちは揺るぎない。
それはわかっているのに 自分の中のどこかにすっきりしない固まりが残って 友貴を苦しめる。
ポタリと手の甲が濡れて 自分が泣いているのを知った。
「ええっ?とも?」
驚く一成をふりほどく。
「……あんな可愛い奴に……キスできて……よかったな」
しゃくりあげながら 一成を睨む。
「妬いてるの?バカだなぁ……」
友貴の頭をくしゃくしゃと撫で 一成は笑った。
「ごめん。友以外の奴とキスして……でもまあ キスぐらいなら許せよ」
キスぐらいってなんなんだ。
友貴の胸にどっと悲しみがこみ上げる。
「ああ わかったよ。キスぐらいなら誰とでもしていいんだ」
「おいっ、なんでそうなるんだ。怒るぞ」
そういう一成の声は もうすでに苛立ちと少しの怒気がまじっていた。
寄ろうとする一成をサッとかわして 友貴は部屋を飛び出した。
自分でも子供っぽいことをしている自覚はある。
だが、キスぐらいっていう言葉はどうしても許せない気がしたのだ。
今日は講義が終って あの部屋で一成と待ち合わせて 丘の上の家に帰るつもりだった。
それなのに……。
友貴は街をぶらつきながら目についた喫茶店に入った。
何気なくケータイを鞄から取り出して見ると 一成からの着信が5件もあった。
マナーモードだったからわからなかった。
少しでも心配してくれているのかもしれない。そう思うとイライラがほんの少し落ち着く気がする。
「ここ 空いてる?それとも誰か待ってるの?」
いきなり声をかけられて顔をあげると 20代後半くらいのサラリーマン風の男が優しげに笑いかけていた。
「あ、別に。……どうぞ」
他にも空席はたくさんあるのになにか妙だと思いながらも 友貴は答える。
ウエイターが注文を聞きにくると 男は友貴の知らないカクテルのようなものを二つ頼んだ。どうやらこの喫茶店は夜は酒も出されるらしい。
「乾杯」
半ば強引に友貴の前にグラスを置いて 男はうれしそうにしている。
「あ、あの俺まだ未成年なんで……」
「ふぅぅん。やっぱり。でも大丈夫。これはノンアルコールカクテルなんだ。これから車で帰らなくちゃいけないからね。飲酒の取り締まりが強化されたこの頃では こういうノンアルコールのものも どこの店にもおいてあるもんさ」
そういうものかと納得し友貴はそれを口に含む。
「あ おいしい」
甘い口当たりの良さに 一気にごくりと飲み込んだ。
男は 自分はこの辺りを営業でいつもまわっていることや 渋滞に巻き込まれて大変だった話を明るく友貴に話す。
「そうなんだ。渋滞はきついよねやっぱ」
男の話に相づちを打っていると 急に身体が火がついたように火照りだした。
「……」
どうしたの?というように男は友貴を見た。
「具合悪いの?送ってあげるよ」
今日はどこに帰ればいいんだろう。
幸い前に住んでいたアパートは まだ解約せずにそのまま荷物がおいてある。
そこに帰るしかないか。
「じゃあ 送って」
友貴はテーブルに手をついて やっとの思いで立ち上がった。
身体が燃えるように熱い。
男が駐車場から車を出す間 歩道の街路樹にもたれ 友貴は一息一息身体の熱を吐き出すように呼吸する。
身体は燃えるように熱く 目はとろんとしてはっきりしない。
どうしてこんなことになったのだろうと考えようとしても 冷静な思考は働きそうにもなかった。
肩に手を掛けられて振り向くと 能面のように無表情な一成がいた。
「い…っせい…俺…変」
一成は強引に友貴の腕を引いて路上に駐められた自分の車に乗せる。
車が発進し後ろを振り返ると 丁度車を出してきた男が不思議そうに辺りを見回していた。
「あの……」
一成は能面の顔のまま 何も言わない。
急に腹が立ってくる。
こんなことになったのは友貴だけの責任とでも言いたいのだろうか。
キスぐらいで怒るなと人に言ったくせに 自分は別にキスされたわけでもないのにこんな怖い顔をされるいわれはない。
「もう……一成の家には帰らない。俺のアパートで下ろして」
相変らず一成は無言だ。
それにしても身体が熱くて友貴はハァハァと息を吐いた。
車が信号で止まると 一成は友貴の頬にその手で触れた。
急に身体の熱が中心に集まってくる感じに友貴は焦った。
「あっ さわら…ないでっ」
「その調子じゃ 家までは持ちそうにないな」
一成は無表情のままそう言うと そのまま車を高速のインターの方角に向ける。
その一帯はホテル街になっていた。
一成は 一番高級そうなホテルに車を進め 半ば正気でない友貴を抱えてその部屋に入った。